川﨑染工場の再開

 平成三年九月、台風19号によって二百年以上前の建物である川﨑染工場は、前方部の屋根を剥ぎ取られ、柱もグラグラにされました。
修復工事が始り、床板の下を掘っていたところ、その中から整然と並んだ藍甕※(あいがめ)が11個見つかりました。掘り出してみるとすべてが使える状態で保存されていました。(※…藍甕は染液を作り保存するためには欠かせない道具です。)

藍甕(あいがめ)

 明治時代半ば、ドイツで「化学染料」が発明されてから、紺系の色は藍染にしか出せないものから、より簡単に、より安価に出せるものになりました。時代の流れで藍染屋は廃業を余儀なくされましたが、藍甕を捨てる事などできず、いつかまた使われることを祈って土の中に埋めたのだと思っております。

 その藍甕を見つけたのは先代、染職人の長男として生まれた十一代目代表の川﨑昭三でした。
父親に反対されながら師範学校に進み、定年退職を機になぜか突然藍染を楽しむために、藍染講座に通い始めました。その矢先、藍甕を発見しました。

床下から発見された藍甕

「ご先祖様が十一代目の気持ちを祝い、最高のプレゼントをくれたのかもしれないと思えます。十一代目は藍甕に再び生命を吹き込み、もう一度川﨑染工場を始める決意をしました。」

翌年の平成四年四月、多くの方々のご協力・ご支援を受け見学や体験学習のできる「藍場」と製品販売のための「店」を備えた川﨑染工場が復元されました。

藍場(あいば)

店構え

 ところがその年(平成四年)の秋、十一代目を支えていた職人が去り、人手不足になってしまい、娘の川崎惠美子が翌年三月一日から仕方なく川﨑染工場で働くことになりました。その月の終わりに十一代目が体調を崩し入院してしまいます。そして四月二十六日に満開の桜と一緒に帰らぬ人になりました。娘にはほとんど何も教えていませんでした。必ずまた藍場に戻り、自分がやると信じていたからです。

11代目当主 川﨑昭三

 最後にただ一言、今でも忘れられない言葉があります。

 作業がうまくできないと愚痴った時に言われた、
「大丈夫、先祖がみんなやってきたんだから」

 父を含め、ご先祖様がこの藍場で仕事をしてきたこと、いつも見守っていることは決して忘れません。

川﨑染工場十二代目代表 川﨑惠美子